あかでやみぬる月の光を

本との出会いを徒然なるままに綴る。

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『三国志』 諸葛孔明・3

諸葛孔明 3

草蘆対(草の庵の対策、隆中策、天下三分の計)・水魚の交わり


因屏人曰。
因って人を屏(しりぞけて)曰く。
漢室傾頹。姦臣竊命。主上蒙塵。孤不度量力。欲信大義於天下而智術淺短。遂用猖獗至于今日。然志猶未已君謂計將安出。
漢室傾頹し、姦臣命を竊(ぬす)み。主上蒙塵す。孤(われ)徳を度り力を量らず、大義を天下に信(の)べんと欲するも、智術淺短にして、遂に用(も)って猖獗(しょうけつ)し、今日に至る。しかも志なおいまだ已(や)まず。君謂(おも)うに計將(まさ)に安(いず)くに出でんとするか。


亮答曰。
亮答へて曰く。
自董卓已來。豪傑並起。跨州連郡者不可勝數。
董卓より以來、豪傑並び起り、州に跨り郡に連なる者勝(あ)げて數うべからず。
曹操比於袁紹則名微而衆寡。然操遂能克紹以弱爲強者。非惟天時。抑亦人謀也。今操已擁百萬之衆。挾天子而令諸侯。此誠不可與爭鋒。
曹操は袁紹に比すれば、すなわち名微にして衆寡し。しかも操ついに能く紹に克ち、弱をもって強となる者は、これ天時のみに非ず、そもそもまた人謀なり。いま操すでに百萬の衆を擁して、天子を挟んでもって諸侯に令す。この誠にともに鋒を争うべからず。

孫權據有江東。已歷三世。國險而民附。賢能爲之用。此可以爲援而不可圖也。
孫權は江東を拠有し、すでに三世を歴たり。國險にして民附し。賢能これが用をなす。これ、ともに援をなすべきも、図るべからざるなり。

荊州北據漢沔利盡南海。東連吳會。西通巴蜀。此用武之國。而其主不能守。此殆天所以資將軍。將軍豈有意乎。
荊州は北、漢沔に拠り、利、南海を尽くす。東は吳會(呉都・会稽)に通じ。西は巴蜀に通ず。これ用武の國。しかも其の主守る能わず。これ殆んど天、将軍に資するゆえん。將軍あに意ありや。

益州險塞。沃野千里。天府之土。高祖因之以成帝業。
益州は險塞。沃野千里、天府の土なり。高祖これに因りてもって帝業を成せり。

劉璋闇弱。張魯在北。民殷國富而不知存恤。智能之士思得明君。將軍既帝室之冑。信義著於四海。總攬英雄思賢如渴。若跨有荊・益保其巖阻。西和諸戎南撫夷越。外結好孫權內脩政理。天下有變則命一上將將荊州之軍以向宛洛。將軍身率益州之衆出於秦川。百姓孰敢不簞食壺漿以迎將軍者乎。誠如是則霸業可成漢室可興矣。
劉璋闇弱にして張魯は北に在り。民殷(さかん)にして國富むも、存恤を知らず。智能の士、明君を得んことを思う。將軍すでに帝室の冑。信義四海に著る。英雄を總攬し、賢を思うこと渇するがごとし。もし荊・益を跨有し、其の巖阻を保ち、西に諸戎に和し、南に夷越を撫し、外に好みを孫権に結び、内に政理を修め、天下に変あらば、すなわち一上將に命じて荊州の軍を率いもって宛洛に向かわしめ、將軍身すから益州の衆を率(したが)えてもって秦川に出でなば、百姓たれかあえて簞食壺漿してもって將軍を迎えざる者あらんや。誠にかくのごとくすんばすなわち霸業なるべく、漢室興うべし。

先主曰。
先主曰く。
善。
善し。と

於是與亮情好日密。關羽・張飛等不。
ここにおいて亮と情好、日に密なり。關羽・張飛らばず。
先主解之曰。
先主これを解して曰く。
孤之有孔明猶魚之有水也。願諸君勿復言。
「孤の孔明あるは、猶ほ魚の水あるがごとし。願はくは諸君またいうなかれ。」

羽・飛乃止。
羽・飛乃ち止む。




人払いをしてから劉備は。
『漢の王室の権威は揺らぎ倒れる寸前です。大臣が国の権利を貪り天子は王宮を追われ戻ることすら叶いません。
(ときの後漢の天子・獻帝は、董卓により首都の洛陽を去って長安に留まり6年、建安元年に曹操により許(河南省)に迎えられて12年。建安12年の当時は姦臣とは曹操の事を指す。)
 私は徳と力が不足しているのもわきまえずに、漢王室の復権と泰平を天下に行おうと奔走しましたが、知識も策術も浅はかにして猖獗(逆賊の勢いが盛ん)のまま今日に至っております。
 しかし、私の漢王室の復興の思いは今だ消えておりません。あなたが思うところ何から始めたらいいかお聞かせください。」

亮それに答えて。
「董卓からこれより、豪傑が世の中に並び立ち、州をまたがり郡に連なって戦いの勝敗を競っているものは数え切れないほどです。
 曹操は袁紹に比べれば、名声はすくなく軍勢の規模も小さかった。しかし曹操は袁紹に善戦してこれに討ち勝ち、弱小だった曹操が強大な力を手に入れる事が出来たのは天の運だけでなく、そもそも有為の人材を得て天下に覇を唱えんと計っていたからなのです。いま曹操はすでに100万の軍容を整え、天子をお迎えして各地の諸侯に命令を下す立場を整えました。とても正面から競って戦える相手ではございません。

 孫權は江東を支配して、すでに三代を数えます。国の防備は厚く民も良くまとまっており臣下の働きも秀でております。これは共に協力して事に当るべきであり敵とするべきではありません。

 荊州は北、漢沔(揚子江の大きな支流・漢水のこと。この河の上流を漾水、漢中盆地までを沔水、これより東を漢水というが混用している。)により。南海(南シナ海から東南アジア方面。広東と荊州の湖北・湖南方面に貿易の通商路が開けていたこと示す。)のに通じて交易が盛んです。
 東は吳會(呉都・会稽、今の蘇州と紹興のことで揚子江下流南岸地帯)に通じ。西は巴蜀に通じる。これは軍事に適している土地で、時の荊州牧・劉表は学術の振興には熱心だが武事には関心が薄く国を守りきれないでしょう。これは天が将軍(劉備)を助けて与えようとしているものです。將軍(劉備)はこれを獲るお気持ちはありますか。

 益州は天然の要塞で攻めるに堅く守るのに易しい地形です。それに広大な穀倉地帯で自然の恵みに富んだ天下の蔵です。漢王朝を開いた劉邦はここを根拠地として天下を治めることに成功しました。

 劉璋は何事にも暗く張魯は漢中に居ます。民はよく働き国は栄えても民をいたわることをしません。ですから心ある官僚や知識人は、恤民の心にあふれた明君を待ち望んでおります。
 將軍(劉備)はすでに漢王室の子孫であり後継者、その信義を天下に明らかにし英雄を掌握し賢人を求めておられます。
 もし荊州と益州を領有しその自然の要害を保ち、蜀の西の氐・羌族と和睦し、南の雲南・貴州の南夷・南蛮を慰撫し、外交では孫権と同盟して、内政では法を明らかにして治め、天下に変事があれば一将軍に命じて荊州の軍隊を率いて宛(河南省南陽、後漢当初より開発が進み南都と称した。)洛(洛陽)に進出し、將軍(劉備)みずからは益州の軍容をしたがえて秦川(甘粛省清水県の清水の河の流域。陜西・甘粛を差す。)に出れば、世の人々は簞食壺漿(タンシコショウ。竹に盛った飯と壷に入れた飲物で軍隊をねぎらう。孟子・梁恵王下に「簞食壺漿以迎王師」に見える。)先を競うように將軍(劉備)を喜んで迎えるでしょう。誠にこのように行なえれば志が遂げられ漢王朝は復興するでしょう。」

劉備は
「善し。」として

ここにおいて劉備と亮は旧友のように親密になったので、關羽・張飛は喜ばず。
劉備は関羽と張飛に、孔明との仲を弁解してとりなすと
「私と孔明とは、魚が水のあるがごとし。願はくば諸君らは不平を言わないでくれ。」

関羽と張飛はそれ以上は言うのを止めた。




  陳寿が著した「三国志・諸葛亮伝」の中でも名文で、三国志の中でも選りすぐりの名文でしょう。それゆえに後世では陳寿が三国志を作るときに脚色をいれて名文に仕上げたもので、本当の献策とは違ったものではないかと疑われもしました。
 この「草蘆対」の孔明の献策は原文にして僅か300文字足らず。それに比して内容は重厚で今後の指針を余すところなく述べて、事実そのとおりに事が進められて行きます。



この献策は
①曹操は智謀すぐれて弱小より起して今日の強大を手に入れ。天子を奉戴して諸侯に命令するという大義名分があるから正面から勝負は挑めないこと。

②揚子江下流では孫権が確固たる政権を確立しておりこれを窺うことは無理であり、誼を通じて協力するのが得策であること

③荊州は軍事的な要衝でありながら、治めている劉表には軍事的に防衛する能力はない事。

④益州には劉璋と張魯が治めているが、民衆の心が離れておりいまだに安定した勢力ではない事。

⑤劉備に残された地域は荊州と益州のみであること。

⑥荊州と益州を合せて領有し漢王室の一族と言う名で人心を獲得して、孫権と同盟して辺境の地方の異民族を懐柔すれば、天下を三分してその一つを保ち曹操の勢力に対抗できる。好機が到来すれば中原に進出して漢王室の再興という志も成就できるでしょう。

 この献策のとおりに今後の情勢が推移していきますが、いわゆる草蘆対(天下三分の計)は一青年の夢想や大言壮語ではなく、混沌とした群雄割拠の状態から頭一つ抜け出したものの状勢も次第に固まりつつあり、ましてや中央に位置した荊州の土地にもたらされる情報や伝聞は、渦中のさなかに居ては知る由もない事柄も俯瞰して見ることも容易だと思われ、襄陽の名士・知識人たちの間で交わされる意見も次第に集約されて正確な答えが導き出されていただろう事は間違いないでしょう。
 想像を逞しくすれば、孔明も名士たちのグループ内での情報から正確な分析を行っていたことは察せられますし、劉備が訪ねてきた事を聞けば聡明な彼の事なら、龐徳公や黄承彦らの名士たちを説いて蔡を中心とする劉備への警戒を解くようにしたとしてもおかしくはないでしょう。

 孔明の策はこうしてみれば奇策でもなんでもなく、かかる状勢を正確に踏まえれば至極全うで、あとは御輿となる人物次第とも取れる平凡な策であるがゆえに偉大なる物があります。



水魚の交わり

 こうして、劉備と孔明の蜜月関係が始まりますが、この二人の会見を晋の思想家・抱朴子葛洪は
 「玄徳の諸葛を見るや晷景(きけい)いまだ改まらずして腹心すでに委ぬ。」
と評して、二人の間柄はこの会見を通して旧知のように結ばれたとしております。

 では、孔明以前の今まで劉備に付き従っていた腹心の部下がたいしたことがないのか、と言う疑問も出てまいりますが決してそんな事はありません。

 関羽・張飛は古くから劉備にしたがって各地を転戦し、平原の相をしていたときに部曲司馬(朝廷の軍隊の編成の単位。群雄割拠の当時では私兵を意味する)として近くに近侍し続けます。
 趙雲も公孫瓉の部下から劉備の信義を慕って臣従して騎兵隊長になり、そのほか汝南の人々が武勇の股肱の臣となっております。
 また、文官では麋竺は東海(山東省郯城県)の富豪の息子で劉備が困窮していたときに巨万の資産や兵員(農奴など)を提供して、妹を劉備の婦人にも薦めて自らも臣従するにいたった政商的な存在です。

 しかし劉備の股肱の臣となった人々は諸葛氏の門地には遥か及ぶほどでもなく、いづれも新興勢力の域からでません。巷では”腐っても鯛”と謂いますが漢王朝が衰微したとしても、長年にわたって脈々と受け継がれた社会的な名門の一族が築き上げたステータスと社交界の結びつきの深さを容易には覆せないのです。
 それは、この後すぐに呉との交渉で見せた交渉力と言うのも、天賦の英才があったにせよ地方豪族を信服させるに足る門地の高さも少なからず影響を及ぼしていると見ていいでしょう。

 孔明がこうして公的に出仕する事となり当面は荊州を防衛することとして、荊州の強化を図ります。まずは兵員の不足を補うために
「荊州は人口が少ないのではなく、戸籍に乗っているものが少ないので、劉表に勧めて遊戸を簿冊に録して非常の際には兵員に付かせては」
と劉備に進言し勧めて戸籍の整備をして兵員の増強を行って、劉備が南陽の大姓鼂氏から銭千万を借り受けるにあたっては孔明は保券の保証人になったリします。



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