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『三国志』 諸葛孔明・2

諸葛孔明 2

三顧の礼・荊州のころ

 建安の始め(196年頃)ちょうど叔父の諸葛玄が職を追われている前後と推測されるころ。孔明は潁川(エイセン)の石韜(広元)、徐庶(元直)、汝南の孟達(公威)らと共に師に従って遊学します。 


 友人らが真面目に勉強し一字一句まで詳しく調べている間、孔明はただ文章の大略の意味を見るに留めていたとあります。

 後漢の時に儒学は極盛になり、朝廷の制度や官吏の登用、論文試験ももっぱら儒学を主にして、治者階級は儒学の教養と実践を持って君に仕え民を導くものとされました。
 経書の正当な解釈が重要とされたために次第に一字一句の注釈のみに捉われて日常生活の利便性からは遠ざかり、曲学阿世の徒を生じてくる傾向にもありました。

 また、北方の戦乱を避けて華北の漢族を抱擁しだした南方の揚州、荊州、益州などは新興地方政権の下に新しい社会を形成し文化を創造する土壌を産み文化の芽が萌芽しだしていたのでしょう。

 孔明の友人の孟建が郷里の汝南に帰ろうとしたとき、孔明は押しとめて
「中国士大夫饒(おお)し、遨遊何ぞ必ずしも故郷ならんや」
と、旧態依然とした華北を去って、南方の新天地を謳歌せんとする気風が読み取れます。

 孔明が膝を抱いて長嘯(長い息を吐き)友人二人に向かって「君たちは役人になれば刺史・郡守位にはなれるだろう」といい「それなら君はどうか」と聞かれたが孔明は笑って答えなかった。
自らを管仲・楽毅・蕭何に比して、潁川の徐庶と博陵の崔州平だけが孔明の大器を認めていた。と言うのはこの遊学していた建安三年(198年)の頃のことになるでしょう。

 崔州平。崔氏は北朝の一流の名族として知られる。州平はあざなで名は不明。兄の元平がいる。父の烈は霊帝の時、銭五百万を納めて司徒の官を得て銅臭とよばれた。董卓の乱で殺される。
 それに対して、徐庶は”単家”親戚などが少ない家。一般的な家庭や境遇と思われ諸葛氏や崔氏のような名族ではない。名は庶、あざなは元直、庶の本名は福。


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 この当時、荊州を治めていたのは劉表で、彼は前漢の景帝の子・魯恭王の後裔と称していたので、後漢の帝室とは疎遠ですが同族になります。劉表は王叡の後任として朝廷から荊州刺史に任命されたのを奇貨として、この地方の名族であった蒯越・蔡瑁らを招き謀略を計って袁術の勢力を牽制しつつ、襄陽・荊州を勢力下に置きます。
 劉表は袁紹と結び黄祖をもちいて孫堅を敗死させ、中央では董卓のあとを受けて勢力を振るっていた李催に誼を通じて鎮南将軍・荊州牧・成武侯の官爵をも得て、湖南・湖北二省を併合して十万余りの兵力を握り地方政権を樹立します。 

 建安六年(201年)に劉備は部下の麋竺・孫乾を使者にして、劉表に宜しく頼むと申し入れをします。劉表は自ら郊外に出迎えて上賓の礼を持って厚遇し兵力を与えて新野(河南省)に駐屯させます。劉備が「髀肉之嘆」を洩らしたとされる逸話はこの頃のことです。

 時を同じくするように曹操が袁紹を破り、華北の形勢を決したのを見計らうように南下する勢いを見せます。荊州でも迎え撃つ構えを見せて、建安七年(202年)劉備は劉表の意を受けて北進して葉(河南省)に進出し、曹操軍の夏侯惇、于禁を破って勝ちをえます。曹操自らも翌年の建安八年八月に西平(河南省)に劉表の軍を破りますが、袁紹の残党が後方を撹乱していたので建安十二年(207年)11月には軍を反して北方征伐に赴きます。

 劉備はこのときに手薄となった許の都を攻撃するように劉表に進言しますが、劉備の信望に猜疑心が募っていた劉表はこの言を却下します。しかし曹操が北方の烏桓討伐を終えて帰ってくると今度こそは荊州討伐のみと、いよいよ本格的に軍を南に転じます。

 事ここに至って、十数年の安定した平和を楽しんだ荊州もついに戦塵にまみれようかとするとき。劉表は年老いて病がちになり元々戦が上手いほうでもなく。
 ことに、内憂は劉表一家の後継者争いも本格化し始めることにも起因していました。
 劉表には、長子の、次子のの二人がいましたが、は劉表の後添えの蔡氏の子で、蔡氏の兄・蔡瑁は劉表が招いた重臣でこの地の有力者。また蔡氏の長姉は黄承彦の妻でもあり。もまた蔡氏の姪を娶るなど蔡氏と強く結びついており、いきおいを後継者にしようとする勢いには抗いがたいものがあります。

 こうした状況においては、客将とはいえ劉備に荊州の防衛を一手に任せるしかなく。ますます衆望の帰する所となり注目されるのは、蔡氏一統の側からすれば当然面白いはずも無く、劉備自身も何らかの打開策を見出さなければいけない状況に追い込まれていきます。

 建安十二年(207年)劉備はこのとき四七歳。漢室再興の念も止みがたく。とはいえども当面を打開する大事を謀るべき人の存在を探すのも急がれる。知る人を訪ねて司馬徽が教えるところには

「儒生俗士、あに時務を知るものは俊傑に在るのみ。この間、自ら伏竜・鳳雛あり。諸葛孔明・龐士元なり」

 劉備は動いて徐庶にも問うてみるが、徐庶は「諸葛孔明は臥竜なり、将軍あにこれを見んことを願うか」と言い。「君の親友なら一度二人出来てくれないか」というが、徐庶は頭を振り「この人は将軍の方から出かけてゆくべきで、呼びつける事は出来ない。どうか駕を枉げて彼の家を訪ねていただきたい。」

 徐庶にしてみれば、孔明の人物・志操を尊重したというよりも、諸葛氏の社会的門地をおもんばかったと考えるほうが良いかと思われ。

 そして、左将軍・宜城亭侯・予州牧の肩書きを有する劉備は隆中の草蘆を訪ねる事になり。三度の訪問をして遂に相対する事になります。


 ここから、諸葛孔明の立場と言うのも非常に微妙な状況におかれていたことが窺い知ることが出来るでしょう。曹操の南下を押し留めることが出来るのは衆望の一致するところは劉備を置いて他にはないとしても、もっか荊州を治める劉表と重鎮の蔡氏からは猜疑の目で見られている人物と、軽々しくおいそれと面会することは危険な行為であることは百も承知しているでしょう。
 ましてや、孔明の立場は岳父をつうじて蔡氏との繋がりもあり。劉備に請われるままに訪れていては他聞を憚れるのは間違いなく。孔明だけでなく下手をして蔡氏に反目するグループと見做されては岳父・襄陽の名門達の立場をも危うくさせることも危惧されます。
 ですから、劉備とは三度目に会ったと言うよりも二度は断る必要が合ったという事でもあると思います。そして、劉備からすれば孔明と面会することは天下を得る策をさづかるだけではなく、劉表・蔡氏との微妙な確執と猜疑を向けられた危急から脱するためにも是が否にでも面会しなければいけない相手でもあり、その矛先を和らげるだけの格式と門地を諸葛一族がそなえていた事でもありましょう。





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