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『三国志』 諸葛孔明・1

諸葛孔明 1

系譜を読み解く

 三国志に「諸葛亮伝」として列伝に取り上げているものの孔明の家系については明瞭でない部分も多く、「諸葛」という中国では珍しい二文字の諸葛姓に関しても諸説あります。

 三国の中の呉に仕えた”韋昭”が著した「呉書」からは、初めは”葛”氏といい瑯耶郡の諸県(山東省諸城県)に居住していたが、ゆえあってか後に陽都(沂水県の南)に移住したところ、陽都には以前から葛という姓があり、この人たちを区別するために諸葛と呼びならわされ、諸葛氏を名乗ることになったという。
 これは、諸県から出た葛氏を意味することで、他にはこの例に沿って複姓が作られたのは”相里””胡母”などがあり状況によってはありえるということになります。


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 諸葛氏が初めて歴史に登場するのは前漢になって、諸葛豊氏と言う人物から始まります。
 諸葛豊(小季)は前漢の元帝の時に司隷校尉になり、もとより剛直な性格であった彼は法律に遵わない者は特権階級と謂えども容赦することなく取り締まり。
時に天子の外戚に当る許章という延臣の不法行為を弾劾しようとしていたところを、たまたま道路で遭ったので早速検束しようとしたが、宮門に逃げ込まれ取り逃がしてしまう。許章は天子に懇願して許しを乞い、元帝は諸葛豊を官吏弾劾権のない城門校尉に左遷したが、態度を改めることが無かったので老年に及んで庶人の身分におとされたという。(前漢書・巻七七に諸葛豊の伝がある。)

 そこから漢代は諸葛氏の名前は出る事が無く、後漢末になってから俄然一族が頭角を現すことになります。
 後漢末から三国時代の諸葛氏の活躍は目覚しいものがありますが、その中でもヤハリ特筆するべきは蜀漢の丞相「諸葛亮」、孔明の兄で大将軍宛陵侯の「諸葛瑾」、遠縁の従兄弟にあたる魏の大司空(最上位の三公の一つ)「諸葛誕」の3人が挙げられます。
当時、どの国々にも著名な人物を多く輩出したので、一部やっかみとも取れるような

「蜀はその竜(孔明)を得、呉はその虎(瑾)を得、魏はその狗(誕)を得たり」

と人物の評価を交えて栄誉を称し。
この後の、晋、南北朝においても有力な貴族として少なからず見えます。




 孔明の兄弟の父、”珪”は後漢末の泰山郡丞(太守の次官、官位が低いのは早死にした事を意味する。)と言うほか何も知られていることが無く。
生母は章氏の女性で、珪との間に三男一女を産み。長子は”瑾”で孔明より七歳年上。次子が”亮”。末子は”均”。一女は姉か妹かどちらともの説はあるようですが彼女は襄陽の名士・龐氏に嫁します。


 孔明の父母は彼が少年の頃に相次いで亡くなります。その詳細な年月はわかりませんが、生母の章氏は兄である瑾が洛陽遊学時代ですから、そこから推測すると孔明が十歳前後の時期です。
 章氏の死後、父の珪は後妻を迎えますが数年の内に父の珪も歿して、このときすでに大学生活を終えていた長兄の瑾が、継母とともに戦乱に巻き込まれ混乱が続く華北から非難するように江東(揚子江流域一帯、上海・南京にかけての地域)に移住します。
 瑾は継母に仕えること生母の如く恭謹であり世の人々に称揚されます。


 一方の孔明と弟と妹は、兄と継母と別れて叔父の”玄”に引き取られます。
玄は荊州の刺史劉表と旧誼があり荊州に招かれて住居を構えますが、興平二年(195年)予章太守・周術の病死にともなってその後任に擬せられたので南昌(江西省)に赴任します。
 しかし、その任官は袁術・劉表のように自ら官吏を任免していた群雄の推薦によるもので、後漢の中央では関知せず、そのために後漢の王朝が任官した朱皓が赴任できない事態に陥るという異常な事態が生じ。
 朱皓は揚州刺史・劉繇に後援を頼み込み、漢代の仏教信者としても有名な”笮融(サクユウ)”の援兵を借りて玄を討ち南昌を陥れ。
 玄は敗走して西城(南昌の西)にかまえますが、建安二年(197年)正月に土民の叛乱にあってあえなく殺害されてしまい、その首は劉繇のもとに送られます。


 こういった騒乱で叔父を喪う不幸に見舞われた孔明は、弟の均とともに玄が以前に住んでいた荊州に帰り、劉表の治める襄陽付近の南陽郡の県の隆中に寓居します。
 襄陽は、古来より水陸の要衝として栄えてきた都会ですが、そこから西に20里(8キロほど)に木々が生い茂る小高い丘陵地帯を隆中といい、ここに孔明の晴耕雨読の生活を送ったと言う故宅があり、その西には楽山という山があり、しばしば孔明は遊山して故郷の民謡である『梁甫の吟』を一人口ずさんだことだったのでしょう。



 沔南の名士・黄承彦は、孔明の人物を見込みその娘を嫁がせます。娘は黄頭黒色、容貌ははなはだ優れなかったが、家政の腕は一品で賢夫人となり内助の功も少なくはないと伝えられます。
 二人の間にはずっと子供がいないこともあり、兄の瑾の次子である”喬(仲慎→伯松)”を養子にもらい。そのずっと後になって嗣子の”瞻(思遠)”が産まれます。

 孔明も弟の”均”のために南陽の林氏の女を迎えています。



 孔明に娘を進めた沔南の名士・黄承彦。 彼の妻は劉表の重臣で有力者の筆頭でもある蔡氏の長姉で兄は”蔡瑁”です。
 劉表の後添えになる蔡氏との子が劉で、劉もまた蔡氏の姪を娶り。蔡瑁と共に党派を組み長子の劉を阻害しを後嗣にしようと企みます。そのお家騒動が曹操の南下の状勢と合わさって一層の混乱に拍車がかかるのですが。

 このように、地方豪族の閨閥のようなものが強く根付いていたなかでは、諸葛氏もまた父の珪、叔父の玄にみられるように、後漢から代々地方長官クラスを歴任した豪族・名士となっていたのは想像に難くなく。
 黄巾賊の討伐で名を挙げた程度の功績で名は知られていた劉備でしたが、所詮は田舎のポッと出の彼が寸土も得られずにいたという事実は、こういう上流の社交界に入り込む隙が非常に少なかったことと理由の一端が垣間見られます。
 また、劉備が”前漢の中山靖王劉勝の末裔”という王朝の流れを汲むという”劉姓”の看板を最大限に生かす必要もあったことが窺えますね。


 孔明の妹が嫁した先は襄陽の名士・龐山民(季)という人物で、山民の父である”徳公”は県南の峴山に夫婦で住み官途には就かずに、後漢書の逸民伝に龐公と記される人とされております。
 孔明は彼を大変尊敬していたらしく、その家に訪れるごとに独り牀下(ゆかした)に拝しましたがとても長話などできなかったらしいです。

 その徳公の従子の”統(士元)”は孔明よりも二歳年長で、質撲で鈍重な性質だったので、才能が余り知られていなかった。その徳公の弟分であった潁川の人・司馬徽(徳操)は統にあってその人物を『南州の冠冕なり』と称し徳公を喜ばせたようです。


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