あかでやみぬる月の光を

本との出会いを徒然なるままに綴る。

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

望郷と訣別を―中国で成功した男の物語

望郷と訣別を―中国で成功した男の物語
著者:佐藤正明


――序章 深圳の悲喜劇
 香港島から突き出した九龍(カオルン)半島の突端に香港と中国を結ぶ九広鉄道の九龍駅がある。ここから電車で40分も乗れば香港側の終点である羅湖駅に着く。改札を出ると出入境審査場(イミグレーション)が目と鼻の先にあり、香港から中国に入るには此処で入境と出境の二つの審査を経なければならない。下車した途端に重そうな荷物を抱えて審査場に走り出すのは、香港での買い物を終えた中国人か久しぶりに里帰りする華僑のどちらかだ。

「帰心矢の如しか、何処もおなじだな。」

 石井次郎はココを通過するたびに抱く感想を反芻する。青森の青函連絡船が就航していたころの青森駅の盆暮れの光景によく似ている。

 石井次郎は年商50億円、純利益3億円を計上している在香港の中堅エレクトロニクスメーカー宮川香港有限公司の総経理(社長)をしている。宮川香港の今日の興隆は、中国本土進出をいち早く果たしたことによるものが大だが、香港と陸続きになっている広東省・深圳市へ工場の進出の決断を下したのは天安門事件の一週間後、1989年6月10日のことだった。それ以来、石井はこのゲートを100回以上通っている。
 ここを通る人は数年前まで、香港のビジネスマンが相場と決まっていたが、小平が指導した経済の改革開放路線が軌道に乗るにつれて、中国人の姿が目立つようになってきた。
 まだ中国が国交を閉ざしていたころは、深圳が唯一の西側諸国との窓口となっていた。いわば鎖国していた江戸時代の長崎の平戸。出島のような役割を果たしていた。そんな中国の出入国の審査が厳しくなるときは決まって政局に変化が起った時で、香港に住んでいると北京の慌しさが伝わってくるようだった。
 石井が広州交易会に参加するために、始めて中国本土の地を踏んだのは1979年だ。天安門をまねたような出入国審査の建物もなく、羅湖駅のホームの小さな審査場を出て小さなドブ川の鉄橋を渡れば中国本土となる。
広州までの直通電車もなく、審査に手間取ると1・2時間も次の電車を待たねばならず。駅前には野菜や果物を売る屋台が軒を並べニワトリが飛び回る、中国の典型的な一寒村に過ぎなかった。
 人口は3000人。土地は痩せ細っており農業だけではとてもやっていけない。若者は男女を問わず銃殺覚悟で香港に密入国を繰り返し、運よく香港に渡った人は下層の仕事で深圳に残された家族に仕送りをして生活を支えた。
 
 深圳といえば経済特区のイメージが強いが、1979年に経済特区に指定されたのは深圳市の一部で香港国境に沿って50キロ、幅7キロで設定されている。面積で名古屋市とほぼ同じ広さだ。
価格競争に喘ぐ日本企業はこぞって中国に生産拠点を移し進出を果たしてきた。しかし、本当の価格競争のしわ寄せは下請けのパーツ製造企業にくる。中国に進出した親会社は現地からの部品調達を模索する。国内に残された中小の部品メーカーは業態の転換を図るか、空洞化を承知で日本から中国に進出するかの二者択一を迫られる。
座して死を待つよりはと、深圳から広州一帯に進出した企業は1100社±100社前後といわれている。正確な数字がつかめないのは香港のペーパーカンパニーを設立して中国の委託加工工場に仕事を発注する形式をとっているためだ。

 大多数の中小企業は海外進出のノウハウを持っていない。しかし、バブルの後遺症に喘ぐ親会社も自らの生き残りに必死で下請けを支援する余力を残しているところは少ない。ジェトロ(日本貿易振興会)などの公的機関に相談するところはまだマシだが、大半の零細企業は意欲はあってもどうやるのか創造すらおぼつかない。メインバンクが第二地銀や信用金庫では相談相手にすらならない。

 石井次郎はこうした日本の零細企業の実態を見かねて、香港の中小企業仲間と力を合せて、深圳に日本の中小企業向け貸し賃貸工場の「日技城製造厰(テクノセンター)」を設立した。
テクノセンターの業務は単なる賃貸工場を貸すだけではなく。中国独自の商慣行のマネジメントを代行することにある。まともに中国のお役所仕事に付き合えば煩雑な手続きで創業までにこぎつけるのは膨大な時間と労力が必要だが、ここに相談すれば最短で2ヶ月ほどで創業が可能になる。
石井のアドバイスを受け清水の舞台から飛び降りる覚悟で中国に進出を果たした中小・零細企業が倒産をまぬがれた数は多く。彼らにとっては石井はまさに「救いの神」である。

 1991年には85万あった中小企業の製造業の事業所数が、94年には85万ヶ所に激減した。従業員も1040万人から888万人へと激減している。同じ時期大企業の事業所は4601箇所から4549箇所へ減っているものの、従業員は369万人から443万人へと増加している。
衰退の原因はプラザ合意後の円高による輸入品の増加や海外移転による空洞化。大企業のリストラの波の波濤をもろにかぶっているのは中小企業に顕著に現れている。



――第1章 ドライバーとピンセット
 1965年(昭和40年)11月6日。25歳の石井次郎は350ドルを懐に横浜から単身ナホトカ行きの船に乗り込んだ。2年前に海外渡航制限が緩和され、業務渡航の自由化から始まり64年には観光・療養などの渡航が自由化された。1ドル360円の時代、日本の貿易収支が大幅な赤字で個人の外貨持ち出しも一人年間500ドルに制限されていた。

 1940年11月15日。太平洋戦争が勃発する一年前に石井次郎氏は愛知県常滑市で産まれた。父の米太郎は戦前に木綿の輸出検査員をしていた関係で繊維業界に顔が広かった。それに目をつけた名古屋の資産家が米太郎に繊維事業を持ちかけた。常滑線沿線に小さな工場を建て工場長として迎え入れた米太郎は検査員と雇われ経営者として綿布事業を始めた。
 それは、審判と選手が試合をするようなもので、検査員の米太郎が書類に判を押せばいとも簡単に繊維を輸出できる。事業は初めから成功を約束されていたのも同然で、工場を次々と拡張し何時しか会社の経営を全て任されるようになった。
 戦争の統廃合や物資統制による不景気も経験したが戦後の好景気をうけて事業は順調だった。工場では中学を出た女工さんたちが800人ほど働いていたが、米太郎は給料は生活費を残し親元に仕送りするように厳しく言いつけた。ボーナス制度は存在しなかったが会社が儲かっているので女工さんには勤務年数により嫁入り道具を買い揃え倉庫に保管しておいた。そして平均して5年ほどで結婚で退社し田舎に帰る彼女達にトラック2台分の花嫁道具を持たせて生まれ故郷に凱旋させるのだった。
 米太郎は、給料を上げるのではなく花嫁道具をそろえたやるほうが彼女達の幸せになると信じて疑っていなかった。

 それから、40年後。石井次郎氏は自分が親と同じ雇われ経営者の道を進むとは予想だにしなかった。しかし50歳を過ぎた頃から『やはり血筋かもしれない』と思うようになった。

 次郎が海外に行くことを考えるようになったのは外国船員がもたらす異文化にあこがれたためだが、綿製業者に嫁ぎ当時米国向けの綿製シャツを縫製していた20歳離れた姉の照子の影響が大きい。
 しかし、次郎が中学2年生のときに、朝鮮戦争が終わりアメリカ軍の物資の買い付けが停止したことから、綿糸相場が暴落し日本の繊維業は大きなダメージを受けた。名古屋のスポンサーが事業から手を引いたことで雇われ経営者だった米太郎はあっさり没落してしまった。高校進学を断念した次郎は映写機のエルモ社に勤め始めた。エルモ社は日本で初めて小型映写機を開発した名古屋の名門企業として知られる。手先が器用だったことが幸いし精密機械の保守・修理には事欠かなかったが、如何せん動作の基礎原理を学ぶ機会がなかったので、入社して2年目に大同工業高校・定時制の電気科に入学して基礎を学んだ。
 次郎の人の良さと面倒見のよさが発揮されるのはエルモ社時代からである。母校大野中学から二人の後輩が入社してきた。次郎は二人を同じ高校の夜間部に誘い授業料の面倒も見た。高校の夜学部は苦学生を対象にしているので授業料は月額800円と安かった。
 漠然とドラーバーとピンセットさえあれば、どこででも通用する精密加工の腕に自信があった。そして、おぼろげに子供の頃の海外の船員達にもらったチョコレートなどの異文化に触れた衝撃と憧れは日に日に募っていた。
 海外に出るには厳重な書類審査があり実質海外に出るには当時の手段としては企業の駐在員しかなかった。次郎は漠然と海外に出たい夢を描きながら、エルモ社を経て小花園ムービー商会などのいくつかの仕事を渡り歩いた。そして念願の海外自由化の扉が開いた。
1965年は前年比24㌫増の15万8827人が海外に出た。



――第2章 デンマーク彷徨
 石井と同じ船の乗客に石川県出身の今度孝もいた。彼は上京後いくつかのレストランを経てステーキハウスで働いていた。都心の華やかな芸能人が集まる店で働くにつれ海外の夢が膨らむ。今度は店の客の伝手でスウェーデンの店の紹介状を貰っていた。綿密な計画は無いが受け入れ先があるというのは心強い。
 ナホトカから飛行機に乗り換えモスクワに着き、そこから鉄道に乗り換えてスウェーデンの首都ストックホルムに着いた。紹介状にある郊外のレストランの経営者は、就業ビザがないものは雇えないのでお金があるうちに帰国することを今度に勧めた。
 石井と今度はモスクワから親密になり行動をともにしていた。石井はのんびりと構えていたが今度の話を聞くうちにストックホルムで仕事を見つけるのは困難だと悟った。
 石井はデンマークからドイツ、イタリアを回ってフランス、スペインへと行くことに決め。今度はストックホルムで頑張ることにした。しかしストックホルムの物価は思いのほか高いのを気にした石井は今度になけなしの50ドルを渡す。逆に心配する今度に、石井は文無し生活には慣れているしヒッチハイクで大丈夫だと告げて旅立つ。
 ヒッチハイカーにはハイカーを拾った運転手は、目的地までの食事は運転手持ちという暗黙のルールがある。運が良ければ運転手の自宅に泊まりこみ、泊めてもらえなければユースホテルに宿泊する。金が無ければユースホテルで仕事をすることを条件に交渉し泊めてもらう。仕事は掃除やシーツの取替えで一日8時間働けば泊めてもらえる上に三食の食事が出る。それ以上働けば日当がもらえて今後のたびの軍資金になる。ヨーロッパでは無一文の若者でも旅行が出来る仕組みが整っていた。

 石井はヒッチハイクとユースホテルで働きながらコペンハーゲンからハンブルグを乗り継ぎ、ミュンヘンからパリに着いたが肝心の仕事の目処は立たなかった。そして、パリからデンマークに向かうことに決め、なんとかドイツの南端シェラトン島の港町までたどり着いたがすでにお金は尽きていた。フェリー乗り場でコペンハーゲンまでのヒッチハイクを試みるが、飲まず食わずで3日3晩空振りに終わり精根尽きかけていたとこに一台のオースチン・ミニが石井の前に止まった。

――助かった。

 北欧最大の旅客船「ロイヤル・バイキング」のチーフパーサーと自己紹介した男は、石井を助手席に乗せて車を走らせながら世間話をしだした。
「日本人なのか、そういえばうちの親父の友達にサトウという人がいる。お前は知っているか」
佐藤は日本では鈴木と一位二位を争うぐらい多い苗字で、誰でも佐藤という友達の一人や二人はいる。石井は夕飯にありつけるということで深くは考えずに調子を合せて答える。
「それじゃ、サトウの友達ならデンマーク・チェス協会の会長の親父はサトウに世話になったらしい。ぜひ親父に会ってやってくれ。きっと喜ぶ。今晩は近くに住む親戚も呼んで盛大に歓迎パーティーをやろう。今夜は私の家に泊まりなさい。」
 小一時間もすると車はコペンハーゲン郊外の高級住宅街に滑り込み大きな家に着いた。すでに親戚の人が集まりパーティーの準備が進められていた。
 石井は家に入るなり度肝を抜かれた。武田信玄の家紋が入った骨董や鎧兜。藤田嗣冶の猫の絵が飾ってあり高価な純日本的な美術品がそれとなく並べてある。そして、サイドボードに飾ってある色紙を見て全ての事情が飲み込めた。揮毫された色紙には『佐藤栄作』と書いてある。
 サトウは時の総理大臣佐藤栄作だった。しかしコレまでの経緯からして人違いとは言いにくく。そうなっては路頭に迷いたちまち凍死する覚悟もいる。
 親父は、自分が日本のデンマーク大使館に勤めていたときに佐藤総理に世話になったと、ひとしきり感謝の言葉を述べ。いつかこのご恩は返さなければいけないと思っていたところにサトウの友達が来てくれた。今日はデンマーク語は使わずイシイに通じる言葉を使ってくれとパーティーの冒頭で紹介した。

そして、翌朝。老紳士が玄関まで見送ってくれた。
「貴方のご子息は、見ず知らずの日本人を車に乗せただけでなく、自分の家に呼んでパーティーまで開いてくれた。今の私にはそこまで歓待されても何のお礼もできません。」
すると、老紳士は含蓄のある言葉で励ましてくれた。
「イシイお礼なんかしなくてもいいんだ。……どんなにご馳走されても”ありがとう”と一言だけ言えばいいんだ。k君はサトウの友達だろう。感謝しているのは私たちのほうなんだ。お礼というのは、恩になった人だけに返すものではない。返すのは誰にでも良い。困った人がおれば、救いの手を差し伸べなさい。差し伸べるのは順送りなんだ。
……サトウは昔から口癖のようにいっていた『日本も経済が豊かになり海外旅行が自由化されれば、若者がどんどん海外に出る。そうなれば日本も大きく変わる』これからの日本は君のような若者が必要なんだ。ここでシッカリ勉強して日本に帰っていくんだ。お前は”日の丸”を背負っているんだ。頑張れ”困ったことがあればすぐ私のところに来なさい。出来る限りヘルプしてあげる。」
老紳士は最後までサトウの友人だと信じてくれた。石井はこのときコペンハーゲンを定住の地と決めた。

 石井はとりあえず急場をしのぐ皿洗いの仕事を探しているときに、市内でストックホルムで分かれた今度と再開した。今度はストックホルムでは十分な仕事が見つからずに、コペンハーゲンでコックの見習いの仕事についていた。
石井は今度に紹介された皿洗いや、飛び込みで家庭を訪問して清掃や修理の仕事のかたわら、精密機械の会社に片っ端から電話をして仕事を探し始めた。そしてAから順に進むうちにMの「モラ・フォト」でカメラの修理部門での仕事を見つけることが出来た。
 ユダヤ系デンマーク人のモラ・フォト社のオーナー。モーテン・ラーセンは厳しかったが、幸いにも仕事ぶりが認められ半年ほどで就業ビザもおり、仕事にも馴れてコペンハーゲン大学へ聴講生として入学した。一年目はデンマーク語の勉強をし二年目は経営学を専攻した。日本とは違い再入学して勉強するものも多く、40代50代の学生もザラにいた。モラ・フォトの職場にも同じように大学に通う社員がいるため丁寧に教えてくれた。
 モラ・フォトに入社と同時に社宅として郊外に一軒家をあてがわれた。寝室が三つもあるが石井一人の独身のみでは広すぎる。そこで市内のレストランで働いている今度孝を誘って共同生活を始めた。
 このころには大勢の日本人が観光でコペンハーゲンにやってくる時代になっていた。名古屋の配管機器大手の斉藤義之もそんな一人だった。斉藤は1964年に大学に入学し4年生になったころスペインに自費留学した。しかし外貨規制は厳しく親が裕福でも自由には送金できない。斉藤は得意の空手を教えて生計を立てていたが学費が払えない。
そんなときだった。
「コペンハーゲンにイシイという世話好きの日本人がいる。仕事の世話をしてくれた上にご馳走までしてもらえる。」
斉藤はそんな噂を聞きつけて、コペンハーゲンの石井を訪ねた。石井の家には大勢の日本人がいた。石井が声をかけたのか現地で採用した日本航空の職員やコニカやトプコンの駐在員など。大手は高級ホテルに泊まらせるが中小はそうも行かない、安宿を泊まり歩き営業に精を出すが本社からの送金が途絶えると石井のもとに転がり込んで仕事に精を出していた。石井の噂は日本人の学生だけでなくビジネスマンの間でも広まっていた。
斉藤は石井の紹介でアルバイトを見つけて夏休みの間働いた。翌年も学費を稼ぎにデンマークに来たが石井の家に行く度に居候が増えていた。



――第3章 ユダヤ・コネクション
 大学紛争などを機に海外留学をする学生も増え始めていた。しかし斉藤のように空手や柔道など生計を立てる特技があるものはまだいい。無計画で留学した学生の多くはかつての自分と同じように乞食同然の生活を強いられた。

『礼を返すのは直接恩になった人だけではない。困っている人に救いの手を差し延べなさい。』

 デンマーク・チェス協会会長から言われた言葉を実践に移すときが来た。石井が出した結論は困っている学生を自分の家に呼んで徹底的に面倒を見ることだった。
 石井は週末になると、アムステルダムやパリ、マドリードなど欧州各地を巡り落ちこぼれの学生を拾っては自分の家に連れ帰った。しかし彼らを養うための生活費の見当もつかなかった。オーナーに事情を話し勤務時間を繰り上げてもらった。夏はチボリ公園で冬は市庁舎近くでソーセージを売り歩きレストランの皿洗いや受付と昼夜の別なく働き。家を出るのが朝6時で帰りは夜中に2時という生活を続けた。稼いだ金は玄関の段ボール箱に無造作に入れ誰でも自由に使えるようにしておいた。石井が不眠不休で働いたお金は月に2万クローネ(当時の日本円で100万円相当)に達した。
 ご飯とお金だけでは学生の挫折感は癒せるものではなかった。学生達は裕福な日本になれて例外なく順調な人生を送っている。しかし、欧州に来てみたものの大学に入るどころか喰うものにも困り乞食同然になってしまった挫折感のショックは大きかった。壁に向かって座り続ける人や、「革命論」をぶつ人、夜中になれば泣き出す人。初めはどうして良いものか困ってしまったが、次第に時間が癒してくれることを学んだ。3カ月から4ヶ月、早い人で2ヶ月ほどで元の明るい学生に戻り、自然と石井にアルバイト先を世話してもらうようになった。一人が働き始めると雰囲気も変わり次第に周囲も明るくなっていった。
 石井が世話をした学生は延べ500人に達した。しかし、大学紛争が収束するにつれ石井の家に居候していた学生も減り始め無理にアルバイトをする必要もなくなり平穏な日常に戻っていた。石井がデンマークにいたのは4年あまりだが、苦労をともにして学生の面倒を見ていた今度は一年前に帰国していた。

 そんなある日、オーナーのモーテン・ラーセンに呼ばれた。
「デンマークの経験だけでは信用が得られない。若いうちに他の国にでも仕事をして、技術を磨き光学機器や流通のシステム。商売のやり方を覚えなさい。推薦状を書いて挙げるから必ずデンマークに帰ってきなさい。」
オーナーの提案は石井にとって渡りに船だった。
石井はオーナーの紹介状を持って、ニュルンベルク、フランス、イギリス、アメリカ、カナダを渡り歩いた。推薦状があれば不思議とどこでもスンナリと採用してくれた。オーナーはそろってユダヤ系だったことに気付き、不思議に思っていた石井はある日オーナーに尋ねてみた。
オーナーは
「封印されている推薦状には石井の働き振りが事細かに書かれている。電話で確かめてもみた『イシイを採用すれば、お前の会社は儲かる』とも言っていた。われわれ仕事仲間は決して嘘をつかない。」

 イシイは各国で仕事をするにつれて巧妙なネットワークの存在に気がついた。日本のカメラはどこの国でも人気だった。しかし、慢性的な品不足に陥っていたので値崩れも無く人気も高かった。がコレこそがユダヤ商法だったのだと気がついた。オーナーがドイツはダメだといったのは、自前の販売網を築いてメーカー同士の過当競争に陥り値崩れから自滅していた。
日本はミシン、カメラとユダヤ人の販売網に乗せ飛躍的な強さを誇ったが。いやユダヤ人がドイツ製品を扱うことを潔しとしなかったのだ。ユダヤ人は日本製品を売ることでかつてのナチスの国に復讐をしたのかもしれない。

 各国で働くうちに石井の心には根無し草だとの思いが募っていた。体が資本であるかぎり病気で倒れたらそれで終わり。不幸にして倒れて日本に帰っても社会保障制度からは外れている。一度日本に帰っておく必要があると思い始めていた。
 オーナーの勧めもあり一度日本に帰国することにしたが、デンマークには「ホリディ・マネー」という不思議な制度があった。会社を休むと国からお金が出る。高福祉による失業対策という苦肉の制度だが、オーナーからポケットマネーで支度金をもらったこともあり貯金を合せて手元に350万円ほどある。石井は今までの恩返しの為に、日本に帰国する前に欧州各国を巡ってカメラなどの精密機械を無償で修理しようというと考えた。
石井は主だったメーカー各社に手紙を書き、修理旅行の趣旨と理解をもとめて部品在庫の購入を打診した。大手メーカーには相変わらず相手にされなかったが、中小のメーカーは補修部品を提供してくれた。
欧州人の気質として物を大切に長く使う傾向がある。7年間の保障期間が過ぎたとして修理できなかったカメラが沢山持ち込まれた。



――第4章 日本的経営の限界
 石井が日本に一時帰国するころ、日本のカメラメーカーはこぞってアメリカで自前の販売網を構築し、ついで欧州でも自前の販売網を作り製品を売りさばき始めていた。
モーテン・ラーセンは苦々しく思っていたのかイシイにこういったことがある。
「ビジネスは遠い将来を見据えておかなければならない。売り上げは飛躍的に増えるだろうが需要と供給のバランスが崩れ、日本メーカー同士の叩きあいになる。早晩利益の出ない産業に転落し乱売になったらその産業は終わりだ。」

 日本に帰った石井は欧州の修理旅行で知己を得たストロボメーカーのサンパックに就職した。そこで工場の品質管理の仕事につき社内結婚をした。後日、知ることになるが石井をサンパックに招いた当時の社長鶴田市郎は、石井を最初から課長に任命したのは残業代を払いたくないからで、いつかデンマークに帰るも無腰掛程度と思って大卒2年目の給料13万円で値切っていたのだった。あたりまえだが当時の暮らしは赤貧洗うが如しだった。

 海外に戻るという望みを忘れたわけではないが、74年には長女。76年には次女に恵まれな海外に戻る区切りがつかなかった。そんなときに、石油ショックから模索していた香港での現地生産の話が持ち上がる。サンパック社内には適当な人材はいなかったことから、経営に精通した日系2世をスカウトしたが最終的に給料などの条件面で折り合わず辞めてしまった。そこで石井に白羽の矢が立てられた。
 現地法人の社長ならと思った石井だが期待は完全に裏切られた。現地法人の菫事長(会長)鶴田雄三(新社長・三男)。総経理(社長)鶴田昌弘(専務・四男)。石井は完全に無視され菫事(取締役)に任命するでもなく、サンパック創業者鶴田一族の常勤役員は誰一人香港に来ることも無く、香港には石井が一人でただの出向の一社員にすぎない「サンパック香港」の船出だった。
 石井は、本社から送金された200万香港ドル(当時のレートで1億2000万円)を全額使って工場を買収してしまった。通常なら設備や人件費。仕入れ金など運転資金を考えるものだが、経営には素人で早速経営資金繰りに困ってしまった。サンパックのメインバンクに工場を担保に運転資金の借り入れに奔走するが行き詰る。しかし、捨てる神有らば拾う神ありで富士銀行傘下の香港・廣安銀行の木下良三氏の知遇を得て、借り入れから信用状などの貿易実務全般にいたる財務面での面倒を引き受けてもらって何とか操業にこぎつけた。
 本業のストロボの生産はドイツのカミソリメーカーのブラウンに納入するなどの実績を積み、初年度は1億2000万円の経常利益を上げることができた。その後の香港返還にともなう従業員の動揺や危機も乗り切り、香港サンパックは順調に行くかに思えたが、サンパックは創業者の息子である三人の兄弟の不仲が思わぬ形で資金繰りに行き詰まり、あえなく乗っ取られるハメになる……。



 本作は、序章から全十一章。最終章を含めて全13章構成からなる700ページに登る大作です。しかし、そんなものとも思わないほど石井氏の波乱の人生を綴った物語は読み手をグイグイと惹きつけることでしょう。
 石井氏は、サンパックを経て宮川に移り。宮川の香港事業部『宮川香港』の経営に携わっていくことになります。その後、御多聞にもれず宮川のお家の事情も相まって、冒頭の『深圳テクノセンター』創業へと続きます。


 いろいろと、感慨深いものが残る本書です。石井次郎氏の姿勢に影響をもたらしたのは、旅先の危機を救ったデンマーク・チェス協会の会長やモラ・フォトのオーナーであるモーテン・ラーセン氏の影響も色濃いでしょう。
 しかし、本当の意味では紛れもなく実父の姿そのものだったように思われます。海外経験を経て老獪な経営者としての顔を持つ石井氏ですが、その経営スタイルには従業員を家族のように処遇する。奇しくも紡績工場で働く年頃の従業員の娘さん達を結婚道具を揃えて送り出してきた、お父様と同じ道を歩まれているように思えてなりません。

 佐藤正明佐藤正明 表参道ヒルズ/作家オフィシャルサイト・リンク氏は、日経新聞社・記者を振り出しに産業部編集委員、次長を経て日経BPの要職を歴任され独立。日経新聞在籍時より著作活動をしてこられ代表作に「ホンダ神話」「映像メディアの世紀」「ザ・ハウス・オブ・トヨタ」など。
 今日の繁栄を築いた産業を取上げ、時には切り込みつつも全体を正しく俯瞰しなおすような、精巧な筆致で描いた作品が多いです。
 特に「映像メディアの世紀」の、日本ビクター高野鎮雄氏を中心としたVHS開発プロジェクトを巡るドラマを描いた作品は、NHK総合テレビのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』や映画『陽はまた昇る』にもなり記憶にとどめている人も多いことでしょう。
本書は文芸春秋社刊行『望郷と訣別を―国際化を体現した男の物語』を文庫化するに当たって原稿110枚加筆されたものです。


巻末の言葉を引用して〆させていただきます。

『望郷と決別した若者が増えれば、日本の将来に向けての展望は必ず開ける』

 巧みに資源や通貨を駆使して躍進するBRICs(ブリックス)ブラジル (Brazil)、ロシア (Russia)、インド (India)、中国 (China)、4ヶ国。とくにドルを基軸通貨と定めIMFを創設した通貨体制のくびきを脱し、人民元を管理固定レートにしてアジアの基本通貨の地位を確立しようとする中国などの若者たちはその通りかもしれない。

 しかし混迷を極める日本は果たして……。


小説・文芸・経済・ビジネス・中国・ドキュメント・ドラマ

望郷と訣別を―中国で成功した男の物語 (文春文庫)望郷と訣別を―中国で成功した男の物語 (文春文庫)
(2003/06)
佐藤 正明

商品詳細を見る



スポンサーサイト

Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

ご案内

プロフィール

緋色悠依

Author:緋色悠依
あかでやみぬる月の光を

 お勧めの本を紹介しております。
 リンク・フリー(アダルトはご遠慮ください)です。コメントなどでご一報いただければ幸いです。
あなたの拍手などが明日への活力に!!応援よろしくお願いします。

最新記事

三宅 純 Jun Miyake ブログパーツ

[Jun Miyake Music Player]

最新オリジナルアルバム[Stolen from strangers](2007)、[The Miraculous Mandarin](舞台:中国の不思議な役人)(2009)から、デビューアルバム[JUNE NIGHT LOVE](1983)まで、ソロでの作品からサウンドトラック、プロデュース作品、CM音楽として提供したものなど、今までの作品の中から21タイトル(09年10月現在)・各4~6曲ずつ全122曲を試聴できます。既に入手困難なアルバムもラインナップ。各曲フルレングスで聴くことができ、三宅 純の世界をPC上で体感できるパーツです。 TDKカセットテープ ADスプレンダーCM曲。アルバムjune night loveに収録されている「could it be real?」がお勧め。

おまかせ

2ちゃんねる痛いニュース

http://www.starbucks.co.jp

アクセスカウンター

現在の閲覧者数

現在の閲覧者数:

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード

ジオターゲティング


ジオターゲティング
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。